なんだかんだ現在の俺はYoutubeチャンネル登録約4万人、Twitterフォロワー7,000人くらいになってて、日々賛辞から暴言まで多種多様な反応を貰えるようになった。
一年前の俺はまだ認知もされてない弱小ブロガーだったことを思うと、こんなに多数の反応を貰えるとは夢にも思ってなくて驚いてる。
俺は全体的に配慮に欠ける発信が多いから批判コメントを貰いやすいんだけど、別段それが悪いことだとは思ってないし直す気もない。
ただ、たまに「どうして批判に耐えられるの?」って聞かれることがある。
ということで今回は批判を恐れて発信できない人向けに、俺なりの批判意見との向き合い方を解説する。
この記事の目次(クリックでジャンプ)
意見発信は誰かの批判の上に成り立つ
まず最初に多くの人の誤解を解く。
大前提として
誰も批判しない意見発信は無理
だということを理解してほしい。
意見発信が不安になる理由
意見発信が不安になるのは誰を不快にさせて誰に批判されるかわからないからなんだ。
誰かにとって喜ばしい意見は他の誰かを不快にする。
「いや俺は誰かを攻撃するつもりで言ったんじゃない」って気持ちはわかるけど、それを判断するのは受け手であって発信者ではない。
いつどこから飛んでくるかわからない批判が意見発信の恐怖心に繋がってる。
どんな意見も誰かの反対意見に成る
自分の発言に対する相手の受け取り方はコントロールできない。
下記は世の中なにをしても批判は避けられない理由としてよく使われている有名な画像なんだけど、
どんな風にロバに乗っても誰かに批判されてる。
ただ、この画像を批判する人の視点で見ると、誰かの行動がどこかの誰かを不快にさせているとも読み取れる。
意見発信は誰かの批判の上に成り立つ
繰り返しになるけど、誰にも不快感を与えずに意見発信するのは無理。
つまり自分の意見発信は誰かの不快感と批判の上に成り立つ。
これを理解することが批判意見と向き合うスタートラインになる。
自由な意見発信には責任が伴う
批判されてる側の、
自分が納得できないからってそれを指摘するのは違うのでは?
的な主張をたびたび見かけるんだけど、それって実は超絶ブーメランだったりする。
批判は攻撃ではなく反撃
そもそも論にはなるけど、何も意見を発信しなければ誰にも批判されない。
誰かに批判されるのは最初に自分が意見を発信をしたからだ。
批判は攻撃ではなく、あくまでも反撃だ。
批判するなは盛大なブーメラン
批判意見は発信者からすると、
別にお前に言ってねーんだからわざわざ指摘してくんな
って言いたくなるんだけど、それならそもそもお前が無差別な意見発信で他人を不快にすんなって話になる。
同じように
嫌なら見るな
もブーメランで、ならお前も批判意見を見るなって言えてしまう。
誰にでも見れる形で意見を発信する以上、それに対して意見を発信されることは想定するべき。
自由な意見の発信には責任が伴う。
他人とは分かり合えない
自由な意見発信には責任が伴うから批判は避けられないけど、だからと言ってその相手と分かり合う全く必要はない。
これは多くの人が抱える二つ目の誤解なんだけど
「話せばわかる」「話し合いで解決できる」
と思うのは諦めて良い。
繰り返しになるけど、この世は10人十色だから、全員を納得させるのは永遠に無理。だから世の中は民主主義という多数決で回ってる。
どうせ分かり合うのが永遠に無理なのであれば、
「ふーんそう考える人もいるんだー」
でスルーして「一生分かり合えない人リスト」に追加すればいいだけ。
お互いに意見を発信するのは自由だけど、その意見を真摯に受け止める必要はない。
批判されてるは勘違いかも
ここまでで自分の意見発信が批判の原因だし、誰も不快にしない意見発信は無理だから、批判とはうまく付き合うしかないということが分かってもらえたと思う。
ところで俺は多数の批判意見を貰ううちに「そもそも俺は批判されているのか?」と疑問を抱くようになった。
YoutubeとかTwitterのコメント欄で貰う多数の批判は俺がやっている意見発信そのものにも見える。
俺が意見発信で誰かを批判する意図が無いように、コメント欄に書いてある意見にも俺を批判する意図は無いのかもしれない。
意見と批判の違いを決めるのは自分
もしお互いに批判の意図が無いのであれば、そこにはお互いが自由に意見発信する健全な空間だけが残る。
文章は喧嘩腰かもしれないけど、それは受け取り方次第だし結局お互い様。
コメント欄の批判は俺がやってる意見発信そのものな気がした。
【結論】他人に配慮するだけ無駄
どれだけ全方位に配慮しても影響力が大きくなればいつか必ず誰かを不快にするし誰かに批判されることになる。つまり考えるだけ無駄。
そもそも顔も名前も知らない人からの批判も暴言も鼻くそだし、炎上したところで実生活に影響もないから、好きに意見発信すればいい。
よくわからない配慮をして意見発信を控えても何も前進しない。
批判数は影響力に比例する
いや俺は全然批判されないよ?って人もいるとは思うけど、それは自分の意見発信が反対意見を持つ人まで届いていないだけ。
影響力が大きくなるほど意見が届く範囲が広がって反対意見を持つ誰かに批判されやすくなる。
逆に言うと今批判されないのは影響力が小さいということだから嘆きこそすれ誇ることではない。
暴言は少し賢い猿だと思えばOK
批判する人の中には暴言で個人攻撃してくる人もいるんだけど、個人攻撃は論理的に戦えない人の敗北宣言と同じ。
賢い猿だと思って無視すれば良い。相手するだけ時間の無駄。
時間的リソースは感謝のために使う
これは現実的な話になるけど、影響力が大きくなると貰える反応が増えて返信する時間的リソースが限界を迎える。
限られたリソースの中で反対意見を説得するか賛同者に感謝するかなら、後者の方が建設的。
繰り返しになるけど10人十色だから反対意見の説得は無駄。
犬に吠えられるたびに石を投げていてはいつまで経っても目的地に辿り着けない。
炎上は素人にはノーダメージ
ところで俺はまだ炎上したことがないんだけど、多くの人が最悪のシチュエーションとして恐れている炎上は法に触れていなければ怖くない。
炎上して失うもの
例えば俺の場合は炎上したところで精々卒業アルバムと実名と住所が晒される程度。
所属している会社も大学も無いからクビになることもないし、そもそもの人間関係も希薄だから失うものが乏しい。
つまり炎上したところで俺の名前が売れるだけでメリットの方が大きい。
一般人なら会社とか大学をクビになる可能性はあるんだけど、それはあくまで法に触れることで炎上した場合の話。
友達も失うかもしれないけど、炎上で失う友達ならその程度だし、欲しければまた新しく作れば良いだけ。
炎上して処罰されるのは法を犯した人
例えばオリラジ中田のYoutube大学では間違った情報発信で炎上したけど、それは悪いことではないから誰にも処罰されないし本人もノーダメージ。
逆におでんツンツンとかはそもそもが犯罪だから処罰されるのは当然。つまり炎上と処罰に相関性はない。
炎上が怖いのは違法行為によって警察が動くケースで、法律に触れなければ炎上してもノーダメージだったりする。
芸能人の炎上が死活問題になる理由
一般人と違って芸能人の炎上が死活問題になるのは好感度で仕事をする職業だからなんだ。
芸能人は好感度が低いとクレームが出るからお金を出しているスポンサーに避けられて仕事が無くなる。
好感度で仕事をする以上、炎上で好感度を下げれば仕事が無くなるのは当然で、一般人と芸能人の炎上は全く性質が違う。
一般人は好感度が下がったところで仕事は無くならないし収入も変わらない。
批判する人が馬鹿なのは本当
今回は「批判する人」ではなくて、「批判の正体」に焦点を当てたんだけど、そもそも批判する人は暇な馬鹿なんだし相手にしなくていいというのは正しい。
批判のために使う時間は損失
誰かを批判するために自分の貴重な時間を使うのはもったいない。
批判は相手のためになっても自分のためにはならないから、批判するのは自分の時間を相手のために使うも同然。
批判(クレーム)は宝の山
逆に批判意見は貰える側にとっては思わぬニーズの発掘に繋がる宝の山でもある。
俺みたいに情報発信で生活する人にとって批判意見は新たな気づきを得られる超ありがたい存在なんだ。
ということで俺は引き続き批判意見を歓迎するし、今まで通り誰にも配慮しない発信を続ける。